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東京地方裁判所 昭和46年(わ)1803号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

一、本件公訴事実は、

「被告人は、自動車運転の業務に従事しているものであるが、昭和四五年一一月一日午前七時四〇分ころ、大型貨物自動車を運転し、東京都渋谷区猿楽町二八番一七号先道路において、南から北へ向かい後退するにさいし、同車は、運転台から進路後方を十分に見とおすことができない構造となつていたうえ、同所は道路舗装工事現場であつて、当時多数の作業員が付近で作業中であり、また騒音も発生していて自車進路上の作業員が同車の接近に気づかないことの十分予想される場合であつたから、あらかじめ自車進路上の作業員に自車の後退を知らせてその避譲を待つ等の措置をとるとともに、付近の作業員に自車の誘導を依頼し、その誘導によつて後退する等細心の注意を払つて運転し、事故の発生を防止すべき業務上の注意義務があるのに、単に運転席の左側窓から主として右後方を見ただけで、前記の諸措置をとることなく、自車進路上の安全を確認しないまま時速約五キロメートルで後退した過失により、自車後方の進路上で作業中の我妻幸司(当時二五年)に気づかないまま自車を同人に衝突させて路上に転倒させたうえ、これを左後輪で轢圧し、よつて、同人をして、同所において、胸腹腔内挫滅により、死亡するに至らしめたものである。」というのである。

二、そこで検討するに、本件公訴事実によれば、被告人の注意義務は自動車運転手として後退にあたり、事故を防止するために「あらかじめ自車進路上の作業員に自車の後退を知らせて、その避譲を待つ」か「付近の作業員に自車の誘導を依頼して、その誘導によつて後退する」ことを要求し、同人が右注意義務を怠つたということである。

三、ところで本件各証拠によれば、次の各事実を認めることができる。すなわち、

(1)  被告人が昭和四〇年七月七日ころ、大型一種貨物自動車運転の免許を取得し、その後毎日のように自動車運転の業務に従事していたものであり、右公訴事実摘示の日時に自己所有の大型貨物自動車(多摩一ろ七二二、いすず四二年式ダンプ、以下本件自動車という)を運転し、興国道路株式会社の運搬作業の下請として、道路舗装工事に使用するアスファルト・コンクリートの運搬作業に従事していたが、本件公訴事実摘示の場所において右自動車に積載してあつたアスファルト・コンクリートを降ろすため、本件事故現場付近で、時速約五キロメートルの速度で後退中、自車の後方の進路上で、道路舗装の作業をしていた我妻幸司(当二五年)に自車後部を衝突させて路上に転倒させたうえで、同人を自車の左後車輪で轢過し、同人が即時その場で胸腹腔内挫滅により死亡した事実(以下単に本件事故ということがある)を認めることができる。

(2)  本件事故の現場は、都道補助二五号線(旧山手通り)上で、南々東代官山方面(駒沢通り、鈴ケ崎交差点)から、北々西富ケ谷方面(国道二四六号上通り四丁目交差点)に通ずる全幅員21.7メートルの歩車道の区別のある道路で、車道幅員は約14.5メートル(その両側の歩道は、東側寄りに約3.5メートル、西側寄りに約3.7メートルで、道路両側は一般住宅となつている)あり、ほとんど直線で視界を妨げる障害物はなく、車道の東側寄りの長さ約87.4メートル、幅約8.34メートルの区域を保安灯二八本、保安棚九個、点滅信号灯二個で完全に、全面的に区画し、その区画内の交通を完全に止めてあり、本件事故当時は、片側歩道寄りの道路(全幅員の四分の一程度)を堀削して路面は切り下げられ、一回目のアスファルトが敷かれ、それが平面にならされ、更に0.20メートル切り下げられており、その上に更にアスファルト・コンクリートを敷く舗装工事を実施していたところ(被告人は「南原台の現場」と呼んでいた)である。

(3)  本件事故現場の作業は、新日本建設株式会社が施工し、松尾栄一が現場監督であり、作業員は、被害者我妻およ平熊喬らを含めて一二、三人位であつた。事故発生当時、被告人運転車両付近には、被害車と平熊喬の両名が作業しており右事故現場から約三〇メートルの富ケ谷方面寄りの所では、その他の作業員らが、作業に従事していたものである。作業員平熊喬は、本件事故現場の作業場内では、特にはつきりと職務の分掌がなされていたわけではないが、現場に出入する自動車について、その誘導関係の職務を有し、普段は、笛を持つて車を誘導したり、作業の自動車が後退するに際しては、後退する車の部分の方に立つて笛を吹き、又は「オーライ」と声をかけながら手で合図をして後退の安全を確かめながら誘導をするのが、普通の仕事であり(本件事故当日は笛は持つていなかつた)被害者我妻も、右平熊喬が差し支かえの際には誘導の仕事をしていたものであつたこと、被告人は前記興国道路株式会社に属しており、同会社に命ぜられて、単にアスファルト・コンクリートをその指示された現場に運搬し、作業現場では、作業員の指示に従つて積載運搬しきたアスファルト・コンクリートを降ろすだけの仕事をしていたものであること、本件事故の日の前々日である昭和四五年一〇月三〇日に、本件現場に本件の自動車でアスファルト・コンクリートを運搬し、その日も現場の作業員平熊喬の誘導に従つて、車を運行後退等をさせたが、ほかに右現場の作業員らとは知り合いではなかつたこと、被告人自身は、自車の後退に降しては、自車の後方には死角が大きく後方の安全が確認できないため、作業現場では、誘導員による指示のない限り後退しないようにしており、普通の作業現場では、誘導員の合図なしに後退することは禁止されており、被告人自身もそのことを充分に知つており、自車の後退は常に誘導員の指示に従つて行うようにしていたこと、

(4)  被告人が運転した自動車は、車長7.16メートル、車幅2.46メートル、車高2.65メートルで、運転席は前方右側にあるいすず四二年式大型貨物自動車(ダンプ)であり、本件事故当時、ハンドル、ブレーキ、その他の装置に異常は認められない。運転席から後方に対する見とおし状況は、(イ)左右サイドミラーによると、車の後方は、車両中央付近より、やゝ後部からその左右のみで、車両の後方の見とおしはできない、(ロ)運転席後方に窓がついているが、その窓からの見とおしは、運転席から振り返ると車両後方約七メートルの地点に立つている人の頭部が認められるが、事故当時はカーテンが取り付けられて、それが閉じてあつたため後方の見とおしはできない、(ハ)運転席右側窓から上半身を乗り出して(運転者の目の位置は地上約2.14メートル、窓より0.25メートル)後方を見ると、後方の荷台右側および荷台下部より車両後方の見とおしはできない、(ニ)運転席から後方荷台上部をとおしての見とおし状況は、後方約二〇メートルの地点に、身長約1.6メートルの人が直立している頭部が認められ、車両左側端に添つて後方約47.9メートル地点を見ることができる、(ホ)運転席のルームミラーによる後方の見とおしは、車両後方約2.6メートルの地点に身長約1.6メートルの人が直立している頭部が認められること。

(5)  被告人は、本件ダンプカーを運転して、本件事故現場に来たのは、本件事故当日が二度目であり、当日は、午前四時半ころ、アスファルト・コンクリート約7.5トンを積載して本件事故現場に午前六時ころ到着し、本件現場で積載してあつたアスファルト・コンクリートの半分を降ろしたこと、そしてその後残りの半分を、その場から富ケ谷方面へ約三〇メートル程後退して運搬することになつていたため、先に降ろしたアスファルト・コンクリートが平坦にならされるのを待つており、一旦自車を少し前進させて停車した後、車から降りて付近で、右自車付近の作業の終るのを待つていたが間もなく乗車したこと、被告人がアスファルト・コンクリートの半分を降ろした後、その場の作業員であつた平熊喬は、被告人車の左側(助手席側)で、被告人の車と反対の方向を向いて、無免許ではあつたが小型ブルドーザーを前進又は後退させて運転して、路面にできた段差を平坦にならす作業をしており、被害者は、被告人車の後方でかなり大きな音を出すタンピングランマーを操作して右平熊に指示されて本件現場の歩道寄りの所のアスファルト・コンクリート路面を締め固める作業をしていたが、その後作業現場を横切つて車道のセンターライン寄りの方に、右のタンピングランマーを操作しており、その作業行程は丁度本件自動車の後退進行の路上にあり事故当時には、本件自動車の左後車輪の付近に倒れていたこと、そしてその他の作業員はその場から富ケ谷方面に約三〇メートル程離れた場所で作業していたこと、

(6)  被告人が、本件自動車を後退させるため運転席に乗車した際、現場の作業員であつた平熊喬は、小型ブルドーザーを運転して被告人車の後方に降ろされたアスファルト・コンクリートを平坦にならして、被告人車が後退できるようにした後、本件自動車の左側扉付近(助手席付近)まで、右小型ブルドーザーを後退させてきて停車し、本件自動車の運転席にいる被告人と顔を見合せてから、本件自動車の後方の工事現場の方に向つて、片手を挙げて二回程振つたこと、そこで被告人は、右平熊の行為を自車の後退を許可したものと解して、自車のサイドミラーを見て後方の安全を確かめた後、自車の運転席の右の窓から顔を出し、自車の右後方を見ながら、後退のランプをつけ、更に後退の警告のブザーを「プープー」と鳴らしながら(ブザーの音については、被告人は鳴つているかどうか記憶がないというが平熊喬は、右ブザーの音を聞いている)時速約五キロメートル位の速度で、後退をはじめたが、約8.5メートル程後退したところ、自車後部で金属製のものに衝突したのを感じて急制動の措置をとつて直ちにその場に停車したが、その際被害者平熊の操作していたタンピングランマーの音には気づいていなかつたこと、

(7)  平熊喬が、小型ブルドーザーを後退させて、本件自動車の助手席側に停車させた際、右平熊の運転席からは、本件自動車の後方はよく見とおせる状況にあつたが、右平熊は右ブルドーザーの運転席で被告人に二回程手を振つた後は、すぐにブルドーザーを降りて、その付近にあつたシャベル等の道具類を片付ける仕事をして(本件事故現場は昼夜の二交替制で、平熊および被害者らは、当日午前七時までの勤務であり、七時すぎには作業を終つて帰宅する筈であつたが、当時は作業が遅れていた)本件自動車の後退を注視せず、本件事故によつてはじめて被害者の事故に気づいたこと

四、右認定の事実によると、被告人が運転した本件自動車は、構造上は運転席からは後退するに際して、自車の後部付近および特に、左後部を見とおすことはできない死角をなしている構造であり、事故当時被害者は、本件自動車の左後部の運転席からは見えない所で、大きな音の出るタンピングランマーを使用して作業に従事していたこと、本件事故現場において、作業員平熊喬は、右現場内の自動車の進行等について誘導員としての職務を有しており、本件事故時にも、右平熊が被告人に対して本件自動車の後方に向つて手を二回程振つたことは被告人に対し後退してよいとの合図を送つたものと一応認められる(ただし、その方法が適切であつたかどうかには疑問は残る)こと、従つて被告人の本件自動車の後退は、右作業現場の誘導員の後退してよいとの指示に従つて行なつたものと認めることができること

五、一般に自動車運転者は、後退に際しては、自車の進行する直後に危険がないことを確認して後退すべきであり、その時に要求される運転者としての注意義務は、発進時のそれよりも厳格であつても、運転者にとつて酷であるということはできない。しかも、右の場合に課せられる注意義務は、その構造上自車後方に死角のできる場合には、状況によつては、自車後方の死角を解消して、後方の安全を確認して後退すべき義務を要求されることもありうるであろうし、その死角を解消する方法については、その場の状況によつて決められるというべきである。

その場合に、自動車が後退するに際して、誘導員もしくは運転助手等がいる場合における運転者の後方の安全確認義務はどのようなものとして要求されるかが問題となるが、かゝる場合、自動車を誘導する誘導員等は、自動車の運転に関しては、全くの素人ということはできないから、自動車運転者と共に、自動車の後退につき、その自動車の後退による死角を解消するために後方の安全を確認し、そのうえ後退を可とする合図をしながら、それによる事故を防止すべき義務を相互に負担しているものと解するのが相当であり、後退しようとする自動車の運転者は、自車の後退に際して、誘導員等、現場における専門家がいる場合には、その誘導員等の指示に従つて自車を運行してもよく、その程度の注意義務を負わされているものと解すべきであろう。

六、そうすると、本件においては、被告人が本件自動車を後退させたのは、一般の人や車の通行が全くなく、作業員のみが、その場で作業に従事している作業場であり、しかも、右作業現場における自動車の発進後退の方法等については、右現場の誘導員等の指示に従うことを要求されている場所で、その現場において、自動車の誘導を専門の仕事としている誘導員の指示に従つて発進後退させた際に発生した事故ということができる。

そして、本件においては、現場における誘導員の誘導の方法に関して、本件事故発生前の誘導員たる平熊喬の行動は、同人が運転する小型ブルドーザーの運転席から後退の合図をしたとして、その誘導の方法は、誘導員の誘導には当らないか、もしくは、その方法は不適切なものとして、その行動を信頼すべきではないとし、従つて、右誘導員の行動を自車についての後退を指示するものと信頼する被告人の行為は相当でないとすることが、次に問題となりうる。しかしながら、前に認定した事実によれば、被告人と本件作業現場の作業員および、特に平熊喬との関係、被告人が本件現場に来たのは単に会社に命ぜられたものであり、事故当日で二度目であること等、当時の状況からすると、被告人が右平熊の行為を信頼することは、それ程軽率な行為と解すべきではないし、また被告人が、右現場の誘導員であつた平熊が軽率な人間で、その行動を軽々しく信頼すべきではないとするような別な事情がない限りは、被告人が自動車運転者として右平熊の行為を信頼して、行動をしても、そのことをもつて、後退に際して右自動車運転者としての注意義務の懈怠になるとすることは、被告人に対して酷な要求を強いるものと解すべきである。

七、そうすると、本件においては、被告人が本件自動車を後退させたのは、現場における誘導員の指示に従つたものと解することができ、この点につき、被告人が自車の後方の死角内に作業員等がいることを予見すべき義務があるとして、その過失責任を認めることは相当でないというべきである。

更に、自車の後退を作業員に知らせて、自車進路上で避譲させることについても、前認定の事実によれば被告人としては後退の合図等運転者としての義務を尽しており、この点に関する義務懈怠はないというべきであり、従つて右の点に関しても、被告人の過失責任を問うことはできないものというべきである。

八、以上のとおり、被告人には、検察官が主張する被告人の業務上の注意義務を怠つたとする訴因について、これを認めることができず、結局本件については、犯罪の証明がないことに帰するので、刑事訴訟法第三三六条により被告人に無罪の言渡をすべきものである。

よつて主文のとおり判決する。

(小野寺規夫)

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